私は、ちょっとした金額を人に請求することが、とても苦手です。
たとえば、誰かの分を立て替えていたとしても、
「この間のお金、お願いします」
となかなか言えません。
少しくらいなら、もう自分で払ってしまえばいい。
昔から、どこかそんなところがありました。
その一方で、自分のためには、あまりお金を使いません。
今、手元にお金があるからといって、
「では、これを買おう」
とは、なかなかならないのです。
思えば、子どもの頃からそうでした。
私は洋服には自分なりの好みがありました。
けれど、親が買ってくれる洋服は、私には少し派手に感じられて、あまり好きではありませんでした。
本当は、もっと違うものが着たかった。
でも、
「私はこれじゃなくて、あれが欲しい」
と強く言い続けるような子どもではありませんでした。
自分で何とかしてでも、自分の好みを押し通すという強さもありませんでした。
嫌だなと思っても、ほかのものを買ってもらえるわけではないから、それを着る。
そんなことが、ずっと続いていたように思います。
だからでしょうか。
私はもともと、自分のためにはとてもつましく暮らすタイプでした。
ところが不思議なことに、人のためにはお金を使えたのです。
若い頃、勤め始めたばかりの時代のことを、ふと思い出しました。
弟夫婦には、まだ小学校へ上がる前の男の子たちが三人いました。
妹夫婦には、まだ子どもはいませんでした。
みんなで、月に一度くらい温泉へ行っていました。
私の勤めていた銀行の保養所です。
一泊、本当にわずかな金額で利用することができました。
豪華なホテルではありません。
けれど、とてもきれいで、そこで働いていらっしゃる方々も親切で、家族みんなで出かけるには素晴らしいところでした。
そのうち、弟の勤めていた銀行の保養所も利用するようになりました。
こちらはまた素晴らしいところで、昔の有名な方の別荘だった建物を利用した施設などもあり、お食事のお世話をしてくださる方もいて、まるで旅館へ出かけるようでした。
それでも保養所ですから、気軽に利用できました。
そんなふうにみんなで出かけると、私はほとんど自分でお金を払っていました。
普段みんなで食事をするときにも、私が払う。
お正月には、当時とても華やかだった逗子マリーナへみんなで出かけました。
ボウリングをしたり、夏にはテニスをしたり、プールへ行ったり。
プールは当時としてはかなり高かったと思います。
それでも大勢で行って、
「いいの、いいの」
と、私はさっと払っていました。
そんな私を見て、弟のお嫁さんが、
「まあ、長女って大変なんですね」
とおっしゃったことがありました。
でも、今になって思うのです。
私は「長女だから払わなくてはいけない」と思っていただけではなかったのでしょう。
みんなで出かけることが楽しかった。
子どもたちも一緒に遊んで、みんなで食事をして、楽しい時間を過ごす。
そんなことにお金を使うのが、私は好きだったのだと思います。
だから、お誕生日に立派なプレゼントを選んだり、素敵なケーキを用意したりすることには、それほど熱心ではありませんでした。
そういうことは案外面倒なのです。
そうではなくて、何かの折に、
「いいよ、ここは私が」
と、ご馳走してしまう。
そんなお金の使い方が好きでした。
しかも、人からあまり見えないところで、さっと使う。
私はずっと、自分はお金に少しアバウトな人間なのだと思っていました。
お金そのものへの執着が、あまりなかったのかもしれません。
自分で払えるくらいの金額なら、わざわざ人に請求しなくてもいい。
ずっと、そんなふうに生きてきました。

ところが今、小さな金額でも気になることがあります。
先日も、公共料金の一部を私が立て替えることになりました。
そして、その小さな金額について考えている自分がいました。
昔の私だったら、
「いいの、いいの」
で終わっていたかもしれません。
私は変わったのだろうか。
お金に細かい人間になったのだろうか。
そんなことまで、ふっと思いました。
でも、昨日、鳩カフェで考えていて、少し違うのではないかと思いました。
昔は、自分から払っていたのです。
「今日は私が」
と、自分で決めて、自分から差し出していた。
それが楽しかったのです。
けれど、自分から気持ちよく差し出すことと、
「この人が払うだろう」
と、いつの間にか周りから思われるようになることとは、同じではありません。
もしかしたら、昔から私があまりにも、
「いいの、いいの」
と払ってきたので、私がお金を出すことが当たり前のようになってしまった部分もあるのかもしれません。
でも、それだけで現在のことが決まったわけではないでしょう。
昔、気前よく払っていたからといって、これからもずっと私が払うということにはならないのです。
そう考えたとき、昨日、私が小さな金額に引っかかっていた理由が、少しわかったような気がしました。
私は、お金を出すことが嫌なのではありません。
むしろ、人のためにお金を使うことが好きだった。
ただ、
自分の意思で差し出すことと、
当然のように負担することとは違う。
私は、その違いを感じていたのだと思います。
昨日、なぜか私は鳩カフェで、そんなことを録音していました。
そのときには、自分でも何をそんなに訴えたいのか、よくわかっていなかったのだと思います。
今日になって録音を開いてみました。
うまく文字に変換されていないところを自分なりに直し、意味のわからないところは削除しました。
そうやって昨日の自分の言葉を読み返しているうちに、
「ああ、私はこんなことを考えていたんだ」
と、初めて自分で気がつきました。
そして鳩カフェでは、もう一つ、野村先生とある方との対談を見ていました。
9月になりました。
野村先生も、そろそろアメリカへ戻られる頃でしょうか。
野村先生は、本当にいろいろな方と対談をなさっています。
今日のお相手も、とても優秀な経歴をお持ちの方でした。
その方は、ほかの方とは違って、自分はもっと難しいことを聞きます、というようなことをおっしゃっていました。
それで私も、
「今日はずいぶん難しいお話になるのかな」
と思って聞いていました。
けれど、しばらく聞いているうちに、私は少し不思議な感覚になりました。
もちろん、とても優秀な方です。
けれど私には、どこか昔の受験競争の時代を思わせるものが感じられました。
たくさん覚えて、難しい試験を突破して、勝ち抜いてきた。
もちろん、それ自体は大変なことです。
でも、知識がたくさんあることと、人の心に届く言葉を持っていることとは、少し違うのではないでしょうか。
そんなことを考えていました。
その一方で、野村先生は、相手が誰であってもやはり野村先生でした。
相手が難しいことを聞こうとしているからといって、突然難しい言葉を並べるわけではありません。
かといって、何でも簡単にしてしまうわけでもありません。
必要なら、きちんと難しいこともする。
以前、ZEN大学の講義を拝見したときには、
「大学一年生の授業ですから、数式を使います」
とおっしゃって、本当に数式を使って説明されていました。
そのとき私は、
「私、今、理科系の大学一年生の授業を受けているんだ」
と思って、なんだか嬉しくなりました。
数式を使っているのに、私にも何をしているのかがわかる。
覚え方まで、
「なるほど」
と思えるように説明してくださる。
難しいことを難しく見せるのではなく、必要なところではきちんと難しいことを使いながら、それでも聞いている人のところまで届けてくださる。
そこが、やはりすごいのだと思います。
そして今日になって、昨日の鳩カフェで考えていた二つのことが、私の中で不思議と一つにつながりました。
お金でも、知識でも、言葉でも。
「私はこれだけ持っています」
と見せることよりも、
持っているものを、人との間でどう使うのか。
私は、どうも昔から、そういうところを大切にしてきたようです。
自分のお金の使い方について考えていたら、いつの間にか、自分が人を見るときに何を大切にしているのかまで、少し見えてきました。
なぜ昨日、鳩カフェであんなことを録音したのか。
昨日の私には、まだよくわかっていなかったのだと思います。
でも、何かを言葉にして残しておきたかった。
何かを訴えたかった。
その「何か」が、一日たって、ようやく少し見えてきました。
昔、家族みんなを連れて出かけて、
「いいの、いいの」
と笑いながらお金を払っていた私も、
今、小さな立て替えのお金について立ち止まって考えている私も、
たぶん、同じ私なのです。

まだ明るい夏空に、三日月様が微笑んでいらっしゃいました。
2026年8月19日 16時50分
お金が惜しくなったのではなく、
自分がどういう気持ちで差し出しているのか。
人と人との間で、それがどんな意味を持っているのか。
今の私は、そこを大切にしたくなったのかもしれません。
鳩カフェで過ごした、9月のはじめのひととき。
昨日の自分が残した言葉から、
私はまた一つ、自分でも知らなかった自分を見つけたような気がしました。